特別食堂のマドンナ 心の死滅
入谷なってるハウス フィラデルフィア近況 2004年春
ニューオーリンズ:Gas Tank Orchestra クリーブランド:Speak in Tongues
ニューヨーク:Amica Bunker バーミンガム
Kathy Change Sean Meehan
Misha Feigin Amy Denio
Leonardson-Finkelman Duo すいか
ボブ・ディラン: No Direction Home


Amy Denio

牧原トシ

今年(2001)の6月から7月にかけて、シアトル、バンクーバー、そしてポートランドを回りました。今回のツアーで僕は2つのトリオに参加したのですが、大変すばらしい経験になりました。一つはシアトルを代表する音楽家の一人、Amy Denio(エミィ・ディナイオ)と以前このコラムに僕がエッセイを書いたロシアのギタリスト Misha Feigin と組んだもの。そしてもうひとつは、ロサンゼルスで活躍するギタリスト Nels Cline とシアトルのサックス奏者 Wally Shoup と組んだものです。両グループはまったくスタイルや趣が違うので、今回は Denio-Feigin-Makihara のトリオ、特に Amy Denio について書いてみようと思います。Cline-Shoup-Makihara についても書きたいのですが、これは次回に譲ります。あと最終日に、シアトル在住の若手ギタリスト Bill Horist ともデュオコンサートをやったので、それについてもまた別の機会に書きたいと思います。

Amy Denio は本当の意味で「多才な人」といえると思います。アコーディオン、サックス、トランペット、ギター、ベースといろいろな楽器を自在にこなし、美しい声で歌い、作曲をし、演劇やダンスの公演に音楽を提供し、いくつかのスタイルの違うグループに在籍し世界を飛び回っているシアトル音楽界におけるワンダーウーマンなのです。しかも彼女はそれらの活動の一つ一つにおいて驚くべき個性を発揮している、本当にユニークなミュージシャンです。だから、彼女のことを詳しく書こうとすれば一冊の本になってしまうので、今回はとにかくMisha とのこのトリオにおける即興演奏を中心に話を進めたいと思います。彼女の活動やレコーディングに関しては、彼女のホームページが詳しいので、そちらを参照していただきたいと思います。

Amy の受け持つ楽器の多様性ということに関して、特に自由即興というフレームワークにおいては、彼女のアプローチは大変ユニークであると思います。それは、それぞれの楽器に対応する別個の演奏家として分別された自己がいるという状況がまずあり、さらにそれら分別された「演奏家たち」をまとめるように監督する意識がその上にあるということです。ここでは「楽器を変えることで演奏を変える」という一見なんの不思議もない状況が、実は大変違った演奏家の「ありかた」として浮き彫りにされてくるのです。それは決してその瞬間ごとに一次元的に音を追う普通の自由即興演奏家とは違い、「作曲性」の濃厚なアプローチで、したがって多次元的です。ここで彼女は即興における「自己のオーケストラ化」とでも呼べるような状況を作り出しており、したがって彼女の即興はソロにおいてさえかなりオーケストレーションされた複雑な様相をかもし出しています。つまりソロにおいて「指揮者」と「演奏家たち」が共存している様な状況なのです。これは彼女の作曲家としての方法が演奏の中に自然とあらわれているようで、僕には大変興味深く思われます。ただひとつここで気をつけないといけないのは、Amy のこの「多様性・多才性」はけっして「あれもできる、これもできる」といった見せ掛けの面白さではなく、長年の学習と練習により鍛え上げられたものであり、それぞれの楽器の技術は汎音楽的なあり方を模索する道程として磨き上げられたということであり、したがってあれもこれもといった八方美人的な態度とはかけ離れたありかたであるということです。

僕は Amy のこの「多才性」は女性的なものなのだろうかと考えたりもします。「この道一筋」的、名人芸的で単一な方向性に対して、彼女は演奏においていくつもの道を提示してきます。即興の中心から360度あらゆる方向に向かって放射してくる、まるで太陽のエマネーションのような彼女のありかたは、(かなり偏見のある表現を許していただければ)単一的に意識を集中しどちらかといえば「名人芸」を重視しがちな男たちのやり方とはかなり違ったアプローチであり、そういう意味で今回の彼女とのツアーは僕には相当のチャレンジであったのです。なぜ作曲的手法を即興の中に出してくるのか?いままで即興のおもしろさが作曲から開放された音楽の自由性にあると考えていた僕ですが、再び即興における作曲的アプローチというもの、そして音楽の遠心的広がり・多様性というありかたについて考えさせられている状況です。それは裏を返せば「作曲」という方法を再検討する、つまり「作曲とは何か?」についての再考ということにも絡んできます。

ちょっと脱線しますが、同じく多楽器で即興を繰り広げた Han Bennink とこの Amy Denio の多様的アプローチを比べてみると状況がもっとはっきりしてくるかもしれません。Bennink は最近はドラムセットに集中しているようですが、以前はクラリネット、サックス、ビオラ、タイプライター、ピアノ、バンジョー、トロンボーンなどあらゆる楽器を演奏していました。しかし彼の場合、楽器はあくまでも彼の瞬間瞬間における集中した音の追求のなかで使われるリソースであり、「もの」です。ここでは「楽器」はその歴史的カルマや特殊性、音楽的専門性、目的性などを剥ぎ取られ、あくまで「音具」として鎖やはしご、石やバケツと同じように即興の中で再認識されます。この再認識された「ステージ」において、いろいろなものをとっかえひっかえ即興演奏する Bennink の姿があるわけです。つまり多楽器を使うにしても、そこには Amy がやるような演奏におけるオーケストレーションの作業など微塵も無いし、そういったオーケストレーションなどという作業から全的に開放されることにおいて Bennink の方法が生きてくるわけです。その意味では Bennink のアプローチはあくまでもソロ奏者としての即興であり、したがって単一的です。ビオラを演奏しても、ピアノを演奏しても、ドラムを演奏してもソロ奏者として即興する Han の存在がまず先頭にあるわけです。だから Han はドラムをたたくのと同じようにトロンボーンを吹き、バンジョーを弾きます。それはある意味では脱伝統的な方法であり、それが楽器の teleology (目的性)に縛られることのない Han の即興家としての「強さ」であるわけです。決してそこにはさきほど僕が Amy に関して書いた「それぞれの楽器に対応し分別された自己」などはないのであり、脱オーケストラ化された多楽器類がリソースとして単一的に使用される状況があるわけです。Amy の多様性、オーケストレーションを重視し楽器のそれぞれのカルマ、スタイル、目的性を大切にするやりかたと、Han の脱伝統的・単一的方法とはまるで正反対のアプローチであると思います。その意味で、同じ「楽器を持ち変える」ということが、Amy と Han とではまったく違った方法論としてとらえられるわけです。

Amy の場合、さらに複雑な状況が絡んできます。彼女はあらゆる音楽のスタイルや歴史を、即興演奏のなかになまなまと生かしてくる人で、それによって彼女の即興演奏がさらに複雑なものになってくるのです。彼女は演奏の中で東ヨーロッパの伝統音楽、アジア、アフリカなどあらゆる地域の伝統音楽のスタイルをところどころに取り込んできます。今回は Misha Feigin が演奏するロシアのフォークミュージックと絡んでさらに面白い表現になっていました。ここにはやはり彼女の作曲家として身に付けた方法が自然と即興の中にも表現されてきているのだと思います。これは Misha にも当てはまることですが、生ぬるくいいかげんな伝統のリサイクルではなく、伝統的表現を自由即興の中でどのように生かすかという課題であり、自由即興が脱構造的でアブストラクトな表現にとどまらず、本当に「自由」であるために伝統的構造や作曲性、スタイルなどをあえて否定しないという主義に立っているように僕には思えます。Amy の演奏の多様性・多才性は彼女の音楽全般に対する開かれた姿勢 (openness) とそれをできるだけ深く理解し、敬愛しようとする努力とによって築かれたものであり、伝統に対する新しい肯定的な姿勢です。そして、それは20世紀後半の脱伝統的前衛のありかたをもう一度再検討する試みと見ることもできると思います。

Amy Denio のこの即興へのアプローチは、脱構造的・脱伝統的手法と構造的・伝統的手法の両面に手を差し伸べようとする態度であり、その意味であくまで肯定的なありかたです。そしてそのありかたを動かし支える原動力は彼女の音楽への「愛」以外のなにものでもありません。彼女の愛は、360度に広がる太陽のエマネーション(放射)のように輝くものであり、それが間髪を入れず彼女の音楽に対する全的な意識の広がりを表し出すものだと、僕は思うのです。

2001年7月