特別食堂のマドンナ 心の死滅
入谷なってるハウス フィラデルフィア近況 2004年春
ニューオーリンズ:Gas Tank Orchestra クリーブランド:Speak in Tongues
ニューヨーク:Amica Bunker バーミンガム
Kathy Change Sean Meehan
Misha Feigin Amy Denio
Leonardson-Finkelman Duo すいか
ボブ・ディラン: No Direction Home ポケットPC


Kathy Change

牧原トシ

オフィシャル Kathy Change ホームページ

僕が初めて Kathy Change に会ったのは 1982年のことだった。当時、僕はウエストフィラデルフィアに引っ越して来たときで、彼女は2〜3軒隣の家に住んでいた。美しい人だった。とても背が高く、痩せていて、モデルのような感じ。そのブロックに住んでいた東洋人は僕と彼女だけだったし、当然気になる存在であった。彼女の話し振りは落ち着いていて、やさしく、澄んだ鋭い目を持っていた。当時近所だったので僕は彼女と結構会話をしているが、今ではその内容を何一つ思い出せない。1980年代前半は、フィラデルフィアの音楽界・芸術界における最盛期のひとつと考えていいだろう。町全体に何か起こりそうな、何か出来そうなエネルギーが溢れていた。

彼女はボーイフレンドの家に同居しており、家賃を払わないで済んでいる・・というような話を聞いた覚えがある。また、彼女はまとまった額の遺産を相続して、しばらくの間自分の信じることをして生きているのだ・・というような噂も聞いたことがあった。しかし結局彼女がどんな経歴の人物で、どんな仕事をしているのか・・というようなことは僕にはわからずじまいだった。僕自身とても内気な人間で、彼女に対して堂々といろいろ質問したり出来なかったし、彼女の方でも僕の個人的経歴等については質問はしなかった。

僕が知っていたのは、彼女が「パフォーマンス アーティスト」だということだけだった。彼女は公共の場で政治的パフォーマンスをやる。そしてアートを武器に闘う政治的アクティヴィストである・・といった事だった。ぼくらのブロックの中程には、ある小さな会社の倉庫があって、彼女はそこの駐車場でよく大きな旗を振り回してパフォーマンスをやった。観客は2〜3人、多くて10人ぐらいか。誰もいないときもあった。僕が家に帰って来ると、彼女が向こう側の駐車場でパフォーマンスをやっている・・ということがあった。当時の West Philadelphia はそんな雰囲気の街だった。あの辺は今でもそうだけど、60年代をほうふつさせるある一種のアナーキーな雰囲気を持っていて、それはその中で君臨するペンシルヴァニア大学のリッチで保守的な雰囲気とはまったく対照的なのだ。そんな West Philadelphia を本拠に彼女は活動していた。

彼女はパフォーマンスでいつも大きな旗を振りかざす。自作の旗で、いろいろなスローガンやメッセージが書かれていて、それを振りかざしたり、かついで街を走り回ったり、といったものだった。おそらく「旗」以外にもいろいろとパフォーマンスをしたのかも知れないが、僕は覚えていない。

彼女のパフォーマンスを最後に見たのは、去年偶然僕が Spring Garden Bridge (フィラデルフィア美術館のところ)を車で渡っている時だった。彼女は大きな旗を2枚掲げて、踊るように橋の上を走って行った。僕がそのとき受けた印象は「わあ、あの人まだやってるんだ」というのと「偉いなあ・・」というなんともはっきりしないものだった。僕はといえば、すっかり中年太りし、サラリーマンとなり、郊外に住み、車に乗ってカー ステレオで Jazz なんか聴いている・・そんな情けない状況だった。僕がアメリカの中流階級の生活の中で眠りこけている間に、彼女は自分のパフォーマンスを15年近くも続けて来ていた。フィラデルフィア自体、1980年代前半のポジティヴなエネルギーはもうほとんど無く、保守的な雰囲気が芸術界も支配していた状況の中、彼女は一人で闘いつづけて来たのだ。僕にとっては目を覚まされる思いであり、深く考えさせられるところがあった。その後僕はもう一度彼女を見かけたが、それは Powelton Village の道端だった。彼女はなにかしょんぼりとした様子で動物園の方向へ歩いていたが、これが結局僕が彼女を見た最後だった。

昨日、新聞で彼女の死を知ったとき、僕は一人でバーベキューを作って台所で食べていた。記事を読んで、とにかく茫然として言葉が出なかった。「ペンシルヴァニア大学のキャンパス内、平和のサインの下で焼身自殺をはかった」と新聞には書いてあった。「ガソリンをかぶって火をつけた」ということだった。僕は何も感じなかった。ショックだけだった。なんとなく彼女がペンシルヴァニア大学のキャンパスでガソリンをかぶって火をつける姿を想像してみようとしたが、出来なかった。僕のもっている彼女のイメージは、旗を振っている姿、走っている姿、澄んだ目、やさしく落ち着いた話振り・・そういったものだけだった。

最初「なぜ?」という疑問がうかんだ。そのあと、僕がふっと感じたことは、いま自分が食べているバーベキューはもしかして Kathy Chang の燃え尽きた命ではないか・・などということだった。何を考えていいのか自分でもわからなかった。僕はこの救い様の無いアメリカの郊外で、のほほんとバーベキューなんか食べているのだ。僕は嘔吐を催し、窓をあけた。

結局僕は死んでしまった彼女との接点を見つけることができなかったし、彼女があのような手段を選んだことがいまいち理解できなかった。たたいてもたたいても開かれない門の前で、彼女は燃え尽きてしまったのかもしれない。ただ、ひとつ気がついたのは、彼女が決してフィラデルフィアやニューヨークの「自称 Asian Artists」たちの仲間に入っていかなかったことだ。町中の Asian Artsist たちが、Multi-culturalism の流行にのって「Asian Art だ」、「Asian Voice だ」と騒いでいるそのはるか彼方で、Kathy Chang(e) は真のパフォーマンスを繰り広げて来た。

「生を100%生きることは死に直面して立つこと。」これは土方巽の言ったことだ。そしてあの日、Spring Garden Bridge で僕が最後に見た Kathy Chang のパフォーマンスは、そう言った意味で本当の「踊り」であったのだと、僕は信じている。

1996年11月1日